2013年2月11日月曜日

どこからが人種差別か

前のオリンピックのときにさかのぼるが、
「短距離走では黒人に圧倒的なアドバンテージがある」
と発言することの危険性について述べていた人がいた。それは、
「黒人は頭が悪いから。」
といいのけてしまうのと表裏一体である、というわけだ。

国民性の違いをネタにしたジョークが多いことを見ると、民族により特性が違うというのはある程度の常識になっているけれども、能力について差があるとは発言しにくい空気はあるらしい。

「ドイツ人って」、「韓国の人は」と言うたびに、ある種の差別を含んだ見方があるかもしれないということになる。

何かについてある種族が優れているというのはすなわち、その種族が別の尺度では劣っている可能性が高い、ということにつながる。
そのことを忘れてはいけないと思う。

作業仮説として考えてみると、
・見かけはチンパンジーだが、知能レベルは人間並み(「猿の惑星」の世界)

・見かけはまるで人間だが、知能レベルはチンパンジー並み
な種族が存在していたとすれば、どうか。
(チンパンジーには人間にない能力があるとか、そういう話は無しで。ここは人間の方が優れているという前提で。)

前者は、共存しなければならないと思いつつ、生理的な嫌悪感を覚えて、相互に退け合う関係になるのではないか?
後者の場合は、もっと恐ろしい結果になりそうな気がする。
劣った種として労働力としてこきつかい、あるいは女性は「人間ではない」存在として扱われるのではないか。
メスを飼うとか。
自動車の衝突の実験にダミーではなく、その種を使うというのが倫理的にセーフになるのか。医療品のテストや解剖実習ではどうか?
そう考えると、だんだん気味悪くなってくる。

人間とそれ以外の区別というのは比較的はっきりとしているので、この種の混乱はあまり起こらないわけだけれど、
その昔は白くなければ人間でないという世の中も存在していわけで、「サルだから許される」という考えは、時代や環境が変われば人種差別の目線とも共通する。
絶対的な指標があるわけではなく、そのときその場所での文化により決まっているだけである、ということを忘れてはいけない。

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